コミュニティー創りとは言わない…
コミュニティーは既にある…
ただし…何かの出来事やこれまでの流れで分断されていたり
ボタンの掛け違いが更なる分断を生み出して...
心掛けている自分の思想がある...
『謝る』ということ...
何でもかんでも謝れば済むという意味ではなく
確信してやったことだとしても全てうまくいくとは限らない...
約束していた取り組みも結果を出せるとは限らない...
その過程で真剣に真摯に取り組んだかどうか?
それは見られている...
それでも答えを導き出せなかった時は
素直に謝ること...
簡単なことだけれどなかなかできない...
責められる怖さか...
はたまた否定されることへの拒絶か…
いずれにしても謝らないことが生み出す軋轢やボタンの掛け違いの多いことよ…
納得できないことも多々あるだろうが
謝ることで進むことも多々あるのだ…
わたくしは自分自身が空になっているので
あまりその辺のことに関しては拘りがない…
謝って事が進むならばいくらでも謝る…
何が気に食わないのかわからない事であっても
割と素直に謝る…
概ねの人はその人のことを認めたくないと思っていても
殺されるほど憎まれる事も中々無い…
殺されないのであれば
謝って済むのであれば
そして…
その次に進めるのであれば
その場は謝っておけばいい…
目的が【この山に登ること】なのであれば
謝らずに登れないという選択ではなく
謝ってでも上るという選択をお勧めする…
登り切った後に責めてきた人が氣づくこともあるだろうし
自分自身の心の中が澄み渡るときもある…
目標 目的を忘れさせられてしまうことが
最も問題である…
凡その人は何か出来る人と出会うとそれ以上を求めてしまう…
自分よりできることを持つ人と出会うとどれだけできるのかを試してしまう…
そして出来ないことが見つかるまで傍にいて
出来ないことを見つけると評論家に回る…
出来ないことがフォーカスされてしまうのだ…
そんな時にいつも謝っている人であれば
そんな風にならない…
なぜならいつも 謝らなければいけないことをしている人 という風に映るから…
その反面 その人の必要性は相手方が勝手に決めてくれる…
必要性が重要なのではなく
真理に向かっていれば必要な時が必ず生まれ
相手方が勝手に悟るのだ…
【完璧な人はいない】ということを…
だから完璧な人を演じたり
そこを目指したりすることが
実はそういった現状を作り出していると氣づく…
相手方だけに問題 原因があるのではなく
自分自身の心の持ち様にも問題があったことを知らされる…
人生が続く間に
まだ健康に生きている間に
それに氣づけるかどうか…
割と重要な要素…
それに氣づけた人は
コミュニティーの大切さを学び
コミュニティーの意味を理解し始める…
コミュニティーとは
【自分が居心地のいい空間】ではなく
【誰でもがいることのできる空間】であり
【食い違ったとしても争わない空間】だと
学び始めた…
多様性のあるコミュニティーは強靭である
一つの思考 思想に捉われるコミュニティーは脆弱である…
それは地域のコミュニティーであっても
SNSなどのネットの世界であっても同じ…
受け入れて対話を重ねながら
お互いの方法でより良い世界を目指す…
その方法について競い合うのは
コミュニティーにとって良いことであればやればいいし
どちらかの意見だけが救われ
どちらかの意見が排除されるような競い合いなら
やめればいい…
そんなことを考えている今日…